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朝倉通信 8 銘仙
足利は、織物の町として、教科書にものるほど、有名でした。 親戚はほとんどが、織や、染めに関係のある仕事をしていましたし、友達も、そういう仕事の家の子供が、たくさんいました。 ひとくちに織りとか、染めとか言っても、その工程は、ほんとに複雑で、
ひとつひとつが、分業で成り立っています。
たとえば、整経屋という職種があります。 絹織物でいえば、何千本という絹糸を、反物の長さにしたがって、揃えることを整経といいます。 長い台を、行ったり来たりしながら、作業をする家もあれば、大きなドラムのようなものを回転させながら、整経する家もあります。 整経した糸にプリントして、模様を染めつける家もあります。 その時、下に敷いた新聞紙を、川原に干すことを仕事にしている人もいました。
かせあげやとか、よりやとか、反物を一反作るのに、全部で三十六もの工程がある、と言われていましたから、職種の多さも当然のことです。 そういう幾つもの職業の人々が
力を合わせて、足利という織物の町をつくっていました。
大通りから道ひとすじ裏に入った中通りには、問屋や、買継商の店がたちならび、路地の どこからも、織機の音が響いていました。 "足利銘仙"というのが、主力商品でした。 銘仙というのは、和服が、着る物の中心だった頃の、女の人たちの日常着でした。 さやさやと、絹ずれのいい音がして、すべすべの、さわやかな手ざわりがしました。 普段着でしたが、なにせ、素材が絹なので、一月に、三枚も膝を抜いた(ひざの部分が、すりきれてしまった)という話もありました。
その頃は、着物にたすきがけで、ひざをつきながら雑巾がけを、して居ましたからね。 そうして破れた着物は、解いて、洗って、ふのり(海草からつくる糊)をつけ、張り板に張って、半纏に仕立て直したり、布団側にしたり、最後は、雑巾にまでして使い切りました。
その上、その雑巾がぼろぼろになったら、乾かして、お風呂の燃料の一部として、燃しました。 まさに、究極のエコロジーです。
友達の中には、織り元の家の子もいて、きれいな銘仙の布で、手提げ袋など作って持っていました。 きっと、織物の見本か、端切れだったのでしょう。 なんだか、とても羨ましい気がして、うちも、ああ言う仕事だったらよかったのに、と、思ったことでした。
今はもう、足利でさへ、和服を普段に着る人もほとんど居なくなって、賑やかだった機音(はたおと)も、すっかりとだえてしまいました。
(1999年4月10日)
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